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46.千年の松ちとせのまつ

ここでは正之の養育を引き受けた見性院の話を紹介します(巻1)。正之が3歳になった頃、幕府年寄(のちの老中)の土井利勝らが見性院のもとを訪れ、正之を養育してくれるように頼みます。驚きながらも、さすがは戦国の世を生き抜いた女性、「私は女にこそ生まれましたが、弓矢の駆け引きで世に知られた信玄の娘、少しも心配はいりません」との一言で、正之の養育を引き受け、御台様(お江)の追及も退けます。

養育を引き受けた理由として、「この子が成人したら武田の名字を名乗らせる」と、武田家の再興の話が出てきますが、実際にはそれも視野に入っていたのかもしれません。

展示資料は、会津藩主保科正之に関するエピソードを、同藩藩士の大河原臣教(おおがわらおみのり)が、文政11年(1828)にまとめたもので、全4冊。昌平坂学問所旧蔵。

(請求番号:158-0341)

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人物背景を知る:お江(1573―1626)

江戸幕府2代将軍徳川秀忠の正室。名は江(あるいは小督など)。父は近江国小谷城主浅井長政。母は織田信長の妹市。姉に豊臣秀吉の室で秀頼を生んだ淀殿(茶々)、若狭小浜城主京極高次の室お初(常高院)がいます。文禄4年(1595)、秀忠と再婚し、家光・忠長の二男、千姫・子々姫・勝姫・初姫・和子の五女を儲けたとされます。

参考資料請求番号:190-0074

参考資料の『東照宮御消息』は、慶長17年(1612)家康からお江に対して出されたという子育てに関する書状の一部。国松(後の忠長)を可愛がることに理解を示しつつも、「長幼の序をわきまえ、国松はのちに家光の家臣となるべき存在であることを常に言い聞かせるように、それが後々国松のためでもある」と教諭しています。しかし、家康の思いとは裏腹に、忠長は兄家光によって切腹となり、悲しい結末になってしまいます。全1冊。明治12年刊。

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