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44.御実紀(台徳院殿御実紀)ごじっき(たいとくいんでんごじっき)

恐妻で夫の秀忠も頭が上がらず、そのため側室も置くことができなかったと語られる「お江」。そんな「お江」のイメージは、どの様な資料に拠っているのでしょうか。

まずは、『台徳院殿御実紀』から。慶長16年(1611)5月7日条には、のちに会津松平家初代となる保科正之(ほしなまさゆき)の誕生のくだりが記されています。それによると、正之の生母は「しづの局」とよばれる女性で、正之出生時に秀忠は「御所は御子ともしたまはず」と、自らの子とは認めなかったこと、武田信玄の娘である見性院が養育し、のちに信濃高遠城主で旧武田家家臣の保科正光の養子となったことが記されています。続けて割注では、世間の噂話として、お江に憚って見性院のもとで養うことになったことが記されています。割注とはいえ、将軍の事績部分に記されている点で、編者がどのように「お江」を捉えていたのかが窺えるようです。

展示資料は、江戸幕府の正史である『御実紀』のうち『台徳院殿御実紀』巻15(52冊目)。台徳院は秀忠の法名で、本書は秀忠の事績を編年体で編纂したもの。展示資料42の『御実紀(東照宮御実紀)』と一連の資料になります。

(請求番号:特075-0001)

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人物背景を知る:お江(1573―1626)

江戸幕府2代将軍徳川秀忠の正室。名は江(あるいは小督など)。父は近江国小谷城主浅井長政。母は織田信長の妹市。姉に豊臣秀吉の室で秀頼を生んだ淀殿(茶々)、若狭小浜城主京極高次の室お初(常高院)がいます。文禄4年(1595)、秀忠と再婚し、家光・忠長の二男、千姫・子々姫・勝姫・初姫・和子の五女を儲けたとされます。

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