資料一覧

古事記と六国史

8世紀から10世紀の初頭にかけて、律令国家としての体制を整備した天皇を中心とする政府は、法典の整備とあわせて、国史の編修に力を注ぎました。その成果が『古事記』『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』等の国史で、うち『日本書紀』以下を「六国史」と総称しています。

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幕府の歴史編纂

鎌倉時代には、それまでの天皇と貴族中心の国史ではなく、将軍と幕府の歴史を記した『吾妻鏡』が編纂されました。江戸時代には、4代将軍徳川家綱の命で、六国史を継承増補した『本朝通鑑』が編纂されるなど、修史事業が盛んに行われました。諸藩の修史事業では、水戸藩の『大日本史』の編纂がよく知られています。

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物語風の歴史

「六国史」後も、朝廷は国史の編修を継続しましたが、新しい国史(『新国史』)は、結局未完に終わります。しかし、だからといって歴史が書かれなくなったわけではありません。漢文体で書かれた従来の国史の簡潔で堅苦しい記述に飽き足らなかった作者たちによって、『栄花物語』『大鏡』など仮名文の物語風の歴史書が生み出されました。

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平家物語

平家一門の盛衰を描いた『平家物語』は、琵琶法師によって語られたばかりでなく、幸若舞や能などの各種芸能、文学に大きな影響を与えました。『平家物語』をもとに創作された物語は、語られ演じられ書写されることで様々に変化し、新たな物語も生まれました。

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太平記と太平記読

14世紀の動乱を描いた『太平記』は、歴史書の性格の強い軍記物語です。のちに「太平記読(たいへいきよみ)」と呼ばれる講釈師たちが、原作にない裏話や人物像を加えることで、その物語世界は大きく広がり、江戸時代に歌舞伎や講談等の題材となったばかりでなく、明治以降は国民教育の素材としても用いられました。

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武力の世界

豊臣氏を滅亡させた大坂夏の陣をもって、国内の大規模戦争は一応の終息をみます。のちに元和偃武(げんなえんぶ)と呼ばれ、戦争のない時代(徳川の平和)が到来したと喧噪されました。

しかし、ここにいたるまでの150年余りの間、国内では戦乱が続き、多くの民衆が戦禍に巻き込まれ、雑兵たちによる略奪や誘拐も続発しました。

ここでは、アニメやゲーム、ドラマなど、ある意味「物語」化された世界とは決別し、リアルな戦国の世界をご紹介していきます。

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戦国の信仰

実力本位で血なまぐさいイメージの漂う戦国時代にあっても、人知を越えた出来事に人々は驚愕し、神や仏にもすがりました。また、天変地異や異常現象に、神々の痕跡を感じ取ります。ここでは戦国の精神世界についてご紹介しましょう。

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戦国の女性

戦国武将たちの華麗なる武勇が賛美され、特定の武将がアイドル化されていく風潮の一方で、近年では、戦国の女性達の姿にも光が当てられるようになりました。戦国を生きた女性たち。その実態を紹介したいと思います。

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歴史と物語

ここでは、時代を重ね、人々に語られ記述されていくなかで、如何にして歴史的な事柄が脚色され物語として形成されていったのか、どのような資料に基づいて話が創られているのかについて、豊臣秀次、徳川家康、お江の3人を事例にご紹介しましょう。

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語られる戦国時代

ある歴史的な出来事の記述や評価が、時代の変遷とともにどの様に変化していくのかについて、幕府の主要資料の中からご紹介しましょう。ここでは、秀吉の死により、薩摩の大名島津義弘が朝鮮半島から引き上げてきた時のエピソードを取り上げ、家康が演じた役割についての記述を比較してみます。

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「正史」と「四大奇書」

「正史」とは、天子の伝記をしるした「本紀」と臣下の伝記をしるした「列伝」からなる紀伝体で書かれた歴史書のことで、王朝が交代すると前王朝の「正史」が国家事業として編纂されます。

「四大奇書」とは、明時代(1368―1661)頃に作られた四つの代表的な長編小説、『三国志演義』『西遊記』『水滸伝』『金瓶梅』のことをいい、宋時代(960―1279)以降、大都市の盛り場で行われていた「小説(短い物語を語る語り芸)」や「講史(歴史物語を語って聞かせる語り芸)」から発展したものといわれています。

「四大奇書」に登場する人物の多くが実在の人物で、「正史」に記載されています。その実在の人物が、「物語」の主人公として長い間盛り場などで語り継がれていくうちに、「物語」の内容は膨らみ、人物像や事跡が脚色され、「正史」の記述からは想像もできないほど大きな変化が生じ、「四大奇書」へと結実しました。

「正史」と「四大奇書」とを比べると、そこには講談師が聴衆を魅了しようと想像力を膨らませ、様々な工夫を凝らした跡を垣間見ることができるでしょう。

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仁正寺藩主・市橋長昭と湯島聖堂献納本

仁正寺藩(現在の滋賀県蒲生郡日野町西大路にあった一万八千石の小藩)の藩主・市橋長昭(いちはしながあき、1773―1814)は、豊後佐伯藩主・毛利高標、鳥取若桜藩主・池田冠山とともに、「柳の間」(江戸城内にある部屋の名)詰めの三大学者大名といわれた人物です。学問を好んだ長昭は、宋版(南宋時代に刊行されたもの)・元版(元時代に刊行されたもの)の漢籍を数多く所蔵していました。その豊富な蔵書の中から厳選した宋元版30部を、文化5年(1808)湯島聖堂に献納しました。その30部のうち21部(重要文化財の3部を含む)が当館に所蔵されています。

市橋長昭献納本リスト(PDF)

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