激動幕末 −開国の衝撃−トップへ

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Ⅷ.歩兵と造船所

開国の衝撃は、軍備の速やかな近代化と軍制大改革の課題を幕府に突きつけました。文久2年(1862)の改革で、陸軍は歩兵・騎兵・砲兵の「三兵(さんぺい)」に編成されて将軍直属の常備軍となり、慶応2年(1866)には横浜に調練場(三兵伝習所)を開設。翌年フランスから招かれた教官たちの指導の下、大規模な陸軍演習が行われました。その後、三兵伝習所は横浜から江戸に移され、江戸の各所に歩兵・騎兵・砲兵の屯所が設けられました。

海軍を持たなかった幕府にとって、海軍力の整備はさらに緊急の課題でした。ペリーの来航から3ヶ月後の嘉永6年(1853)9月に大船建造の禁を解き、石川島の造船所で水戸藩に西洋式大型帆船「旭日丸(あさひまる)」を造らせ、安政元年(1854)には浦賀の造船所で「鳳凰丸(ほうおうまる)」を起工。その後オランダ・イギリス・アメリカ等から船舶を購入して海軍力の充実を図りました。その一方で、オランダ政府の発案で長崎に設けられた海軍伝習所(1855-59)に伝習生を派遣して航海技術や科学知識を習得させ、安政4年(1857)には江戸に軍艦教授所(後に軍艦操練所、海軍所と改称)を開設し、海軍教育の充実を期しました。

海軍の近代化、ひいては日本の近代化には工業技術の向上が不可欠であるという見地から、歩兵奉行・軍艦奉行・勘定奉行等を歴任し、文久の軍制改革にも参画した小栗忠順(おぐりただまさ 1827-68)は、製鉄所(造船所)の建設を積極的に推し進めます。フランスから技師ヴェルニーを招き、慶応元年(1865)に横須賀の地で起工。その完成を見ずに幕府は倒れ、小栗は斬首されますが、造船所の建設は新政府に受け継がれ、横須賀造船所、横須賀海軍工廠へと発展しました。

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