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29.日本新聞・中外新聞(江戸城多聞櫓文書)にほんしんぶん・ちゅうがいしんぶん

幕府は、すでに安政3年(1856)に蕃書調所に外国新聞の翻訳を命じ、海外情報を集めていましたが、情報源としての外国新聞の重要性は、文久2年(1862)の生麦事件を機に飛躍的に大きくなります。事件の賠償を求めるイギリス側の動向や薩英戦争(文久3年、生麦事件の結果発生したイギリス艦隊と薩摩藩の交戦)に関する詳細で迅速な情報の入手を必要としていた幕府に、外国新聞は掛替えのないものと認識されたのです。

以後、横浜で外国人向けに刊行されていた英字新聞等が開成所の人々によって定期的に翻訳され幕閣に提出されました。やがてその情報は開成所のメンバーや幕府上層部ばかりでなく、諸藩にも伝わるようになります。開成所の翻訳作業の中核だった柳河春三(やながわしゅんさん 1832-70)は、慶応元年(1865)、会費を納めた同人に翻訳新聞の写しを提供する「会訳社」を組織。開成所を経由した海外情報入手の輪はさらに拡がりました。

『日本新聞』は、横浜で発行された『ジャパン・タイムズ』の翻訳で、第22号(1866年2月2日発行)・57号(同年10月13日発行)・64号(同年12月1日発行)・65号(同年12月8日発行)・72号(1867年1月26日)の5部。翻訳者は開成所の堀越英之助、内田弥太郎、春日与八郎ら。

『中外新聞』は、巻3・5・6・11・12の5部で、翻訳者は渡辺一郎、石橋鎗次郎ほか。『倫敦新聞』『横浜新聞』『日本雑報』等の記事が紹介されています。

日本新聞
中外新聞

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