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8.諳厄利亜人性情志あんげりあじんせいじょうし

砲台(台場)を新設して沿岸防備を固めるだけでなく、より正確な海外情報を収集することで国防の資料にしようとする動きも、幕府天文方(てんもんかた)の高橋景保(たかはしかげやす 1785-1829)を中心に顕著になりました。

景保は伊能忠敬(いのうただたか)による日本全国の測量作業を監督する一方で、『新訂万国全図』(世界地図)を作製。また文化8年(1811)、天文方に蛮書和解御用(ばんしょわげごよう)の局を開設し、オランダ通詞の馬場佐十郎や蘭学者の大槻玄沢らを招いて、フランス人ショメールの家庭用百科事典をオランダ語訳版から日本語訳することを企てました(後に『厚生新編(こうせいしんぺん)』として完成)。このほか景保は、レザーノフを乗せて長崎に来航した(1804年)ロシアの海軍提督クルーゼンシュテルンの『世界周航誌』の一部を『奉使日本紀行(ほうしにほんきこう)』として、ゴロウニンの『日本幽囚記』を『遭厄日本紀事』として、それぞれ馬場佐十郎と青地林宗に日本語訳させています。いずれもオランダ語版からの重訳ですが、共に原書(ロシア語版)が出版されてから10年足らずで翻訳が完成しており、海外情報の収集が加速している様子がうかがえます。

景保はその後、洋書と交換にシーボルトに海外持ち出し禁止の地図等を提供した事実が発覚して捕らえられ(シーボルト事件)、文政12年(1829)、45歳で獄死しました。

『諳厄利亜人性情志』は、高橋景保が吉雄忠次郎(よしおちゅうじろう 名は永宜。1787-1833)に訳させたイギリスの歴史と国民性に関する書。文政8年(1825)に書かれた序文で、景保は、イギリス人は「死を軽んじ己が為さんと欲する所誓て必果し」(目的のためには死をものともしない闘争的な)気性であると同時に、古くから国王たりとも背けぬ法典を整備し、「君臣上下の別ありと雖(いえど)も其(そ)の実は無か如(ごとく)」(身分階級の別は、あって無きがごとし)と、その国民性を要約しています。景保は何故このような書を和訳させたのか。理由は、当時頻繁に出没するイギリス船に対する危機感にほかなりませんでした。イギリスの脅威に対処するためには、まず彼らの国民性を知らなければ、というのです。

翻訳者の吉雄忠次郎は長崎のオランダ通詞で、オランダ語・ロシア語を学んだのち天文方に出向、文政7年(1824)にイギリスの捕鯨船員12人が水戸藩領大津浜に上陸した際に幕府調査団の通訳を務め、またシーボルトと景保の連絡役でもありました。シーボルト事件に連座して米沢藩にお預けになり、天保4年(1833)、同地で没。享年47歳。全1冊。

諳厄利亜人性情志

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