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3.北夷談ほくいだん

ラクスマンの来航(1792年)以後、幕府は蝦夷地の直轄化を進め、箱館奉行を設置し、あるいは近藤重蔵(こんどうじゅうぞう)に択捉島を視察させるなど、蝦夷地の経営と防備に積極的に取り組みました。ロシアの脅威は、文化3年(1806)から翌年にかけて、レザーノフの部下たちが樺太・択捉島ほかの日本人居住地を襲撃したことでさらに差し迫ったものとなり、文化4年(1807)末、幕府はロシア船の打払(うちはらい)(撃退)を命じると共に、南部・津軽・会津・仙台の各藩を動員して蝦夷地の防備の充実を図りました。

ロシアに対する緊迫感が継続するなか、文化8年(1811)6月、ロシア船ディアナ号の艦長ゴロウニンらが測量中に国後(くなしり)島で日本側(松前奉行支配調役 奈佐政辰(なさまさとき))に捕らえられる事件が起きます。これに対抗してロシア側は、蝦夷地の開発と交易を手がけていた豪商高田屋嘉兵衛(たかだやかへえ 1769-1827)を捕らえてカムチャッカヘ連行、両国の緊張関係は極に達しましたが、嘉兵衛の尽力もあってやがて和解が成立し、文化10年(1813)に双方の捕虜の交換が実現しました。松前と箱館で2年3ヶ月もの間監禁されたゴロウニンの手記は『日本幽囚記』として出版され、わが国でも、そのオランダ語訳本が『遭厄日本紀事(そうやくにほんきじ)』の題で和訳されています(1825年)。

『北夷談』は、文化5年(1808)に間宮林蔵(まみやりんぞう)と樺太を探検し樺太が島であることを確認したことで知られる幕臣松田伝十郎(まつだでんじゅうろう 1769-1843)が、北方探検の体験やアイヌの風俗慣習等を絵入りで紹介した書。伝十郎は文化10年8月にロシアに引き渡されるゴロウニンを松前から箱館まで護送する役を務めており、『北夷談』にはその折の様子が詳しく記録されています。全7冊。

北夷談

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