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27.合衆国小誌がっしゅうこくしょうし

嘉永7年(1854)に日米和親条約を結び西欧諸国との交渉が頻繁になると、幕府は翌年、天文方に置かれていた蛮書和解御用の局を独立させ、洋学所としてこれを江戸九段下に設置しました。洋学所は安政3年(1856)蕃書調所(ばんしょしらべしょ)と改称。文久2年(1862)に洋書調所と改められたのち、文久3年(1863)にさらに開成所と改称され、外国語学習だけでなく、西欧の進んだ科学や兵学の知識をいち早く摂取するための総合的な研究機関としての体裁を整え、幕臣のみならず諸藩からすぐれた人材が集められました。こうした幕府主導の西欧研究のほか各藩でも洋学熱が高まり、西洋の情報は「開国」前とは比較にならないほど、正確かつ迅速に入手されるようになります。

『合衆国小誌』は、仙台藩に仕える儒者で西洋の砲術を学んだ大槻磐渓(1801-78 父は蘭学者大槻玄沢)が、オランダ人葛拉墨児(カラメール)が著した世界地誌のうち、アメリカ合衆国の部だけを小関高彦に訳させ図説等を補ったもの。上巻は合衆国全体の地理・気候・人口・歴史・政治・軍備・産物等について概説し、下巻では各州の状況が記されています。内容にもまして、1850年に出版された原書の日本語訳が、部分訳とはいえわずか4年後の嘉永7年(1854)に完成したことは注目してよいでしょう。大槻磐渓も、「例言」で、本書はわが国にもたらされた最新の地誌の翻訳であると誇らしげに述べています。訳者の小関高彦は磐渓の亡き友小関三英(こせきさんえい)の甥。三英は天保10年(1839)、蛮社の獄の際に自害した蘭学者です。安政2年(1855)刊。全2冊。

合衆国小誌

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