激動幕末 −開国の衝撃−トップへ

ここから本文

4.視聴草みききぐさ

間宮林蔵と松田伝十郎が樺太を探検した文化5年(1808)、長崎ではイギリスの軍艦フェートン号がオランダ船を偽装して不法入港し、ヨーロッパにおけるナポレオン戦争で敵対関係にあったオランダ商館員を捕らえ、食料や水、燃料を強請する事件が勃発しました(フェートン号事件)。フェートン号は2日後に姿を消しましたが、時の長崎奉行松平康英(まつだいらやすひで)は自ら腹を切り、幕府は新たにイギリスの脅威を実感することになります。

事件後、イギリス船は日本近海に頻繁に姿を見せるようになり、『通航一覧』編纂の実務を担当した旗本宮崎成身の雑録『視聴草』にも、関連記事が彩色図を添えて収録されています。

『視聴草』二集の六に記されているのは、文政元年(1818)5月13日に浦賀に現れたイギリス船の記事。番所の役人が事情を尋ねたが言葉が通じない。江戸から天文方の足立左内(あだちさない 信頭(のぶあきら))・馬場佐十郎(ばばさじゅうろう 貞由)が派遣され、来航の経緯を聴取したということです。異国船現る!の報が達すると、この地で海岸防備に当たっていた会津藩兵が抜き身の槍を持って出動し、兵船で取り囲むなど緊張が高まりましたが、イギリス船はインドからロシアヘ向かう途中の商船で、交易は不可、即刻退去するように勧告すると、静かに姿を消したと書かれています。通訳を務めた足立左内と馬場佐十郎は、オランダ語を解したうえ、共にゴロウニンの一件で松前に出張してロシア語を学んでおり、当時最も外国語に通じた幕臣でしたが、英語の理解力は不十分だったようです。

『視聴草』続二集の六には、文政5年(1822)4月29日、再びイギリスの船が浦賀に来航したときのことが記されています。またしても足立・馬場の両名が派遣され、オランダ語を解する乗務員から、同船が2年前に本国を出航した捕鯨船で、水、食料、薪を補給するために立ち寄ったことを聴き取ります。幕府の警戒は厳しく、白河、小田原、川越各藩に出動を命じ、多数の船で捕鯨船を囲みましたが、船内には鯨油のほか荷物はなく、薪水と食料そして「敗血病」治療用の「山土」(病んだ足を土中に漬けると快方に向かうというのです)など希望の品が手に入ると、捕鯨船は5月8日に浦賀を去りました。『視聴草』には、船内の捕鯨道具や乗組員の食器等の図のほか、「諳厄利亜人言語之大概(あんげりあじんげんごのたいがい)」と題してさまざまな英単語が紹介されています。

浦賀に来航したイギリス船は事なく去りましたが、その後、文政7年(1824)にイギリスの捕鯨船員が水戸藩領大津浜(茨城県北茨城市)や薩摩の宝島に不法上陸する事件があり、翌文政8年(1825)、幕府は、異国船は打ち払うべしとする異国船打払令(無二念打払令とも)を出し、異国船排除の姿勢を明確に打ち出しました。『視聴草』は全176冊。

視聴草

ボタンをクリックすると資料画像が表示されます

本文ここまで




ページここまで