激動幕末 −開国の衝撃−トップへ

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Ⅲ.黒船と開国

アヘン戦争後、清国と通商条約(1844年の望廈(ぼうか)条約)を結んだアメリカ合衆国では、中国貿易の拡大が予想され、加えてメキシコから資源豊かなカリフォルニアを手にいれた(1848年)結果、太平洋岸における商業活動の飛躍的な成長が期待されていました。このようなアメリカにとって、アメリカと中国を蒸気船で結ぶ太平洋航路の開設は最大の関心事であり、そのためにも石炭等を補給する中継地は不可欠でした。あわせて日本近海で操業する捕鯨船などの安全(避難港の確保等)を期し、合衆国政府はペリー(1794-1858)を東インド艦隊司令長官に任命。わが国に派遣して「開国」を求めました。

1852年11月、ミシシッピー号で本国を出航したペリーは、途中、琉球と小笠原に立ち寄ったのち、嘉永6年(1853)6月3日、サスケハナ号、ミシシッピー号、プリマス号、サラトガ号の4隻で浦賀沖に姿を現します。浦賀奉行所与力の中島三郎助(なかじまさぶろうすけ)らが応対し、交渉は長崎で行うよう告げましたがペリーはこれを拒否。アメリカ国書(親交と通商の開始を求める合衆国大統領フィルモアの書簡)を受け取るよう強く求めて艦船を江戸湾内へ乗り入れたため、幕府も要求を受け入れ、6月9日(1853年7月14日)、久里浜(神奈川県横須賀市)に設けられた応接所で、日本側の代表である浦賀奉行戸田氏栄・井戸弘道に国書が渡されました。

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