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Ⅴ.語学熱と海外情報の収集

イギリスの軍艦が長崎に不法入港したフェートン号事件(1808年)以後、オランダ通詞の英語学習が始まり、嘉永6年(1853)にペリーが初来航した際にもオランダ通詞の堀達之助(ほりたつのすけ 1823-94)が日本側の通訳を務めました。しかしペリーの旗艦サスケハナ号に番船を横付けした堀が発した第一声は、「アイ キャン スピーク ダッチ」(私はオランダ語を話すことができる)。その後の交渉も主にオランダ語で行われました。

翌年ペリーが再来航し日米和親条約を結んだ際の通訳は森山栄之助(もりやまえいのすけ 多吉郎  1820-71)。森山は英語に堪能でしたが、交渉の場ではやはりオランダ語が用いられたようです。当時はアメリカから帰国した中浜万次郎も幕府のために英文の翻訳等を行っていましたが、彼の英語習得は漂流という特殊な事情によるもので、英語のみならずわが国における西洋の言葉の学習は、オランダ語を除いてまだ「夜明け前」でした。

そんな状態を決定的に変えたのが安政五ヶ国条約(1858年)です。条約締結の5年後には5ヶ国とそれぞれの国語で交渉するよう迫られた幕府は、各国語の通訳の早期育成を図らなくてはなりませんでした。英語・フランス語の伝習は、まず江戸の英米仏各公使の宿所の寺で行われ、慶応元年(1865)、幕府は横浜に寄宿舎付きのフランス語学伝習所(語学所)を開設します。やがて同所では英語の伝習も行うようになりました。

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