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年表
和暦 |
西暦 |
事項 |
資料番号 |
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寛永 |
12 |
1635 |
日本船の海外渡航と海外在住日本人の帰国を禁じる |
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16 |
1639 |
ポルトガル船の来航を禁じる(鎖国の完成) |
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寛政 |
4 |
1792 |
ロシアの使節ラクスマン根室に来航、通商を促す。大黒屋光太夫帰国 |
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11 |
1799 |
高田屋嘉兵衛、エトロフに渡海(エトロフ航路を開く) |
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文化 |
元年 |
1804 |
ロシアの使節レザーノフ長崎に来航。通商を求める国書受理されず。津太夫ら帰国 |
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4 |
1807 |
津太夫ほか漂流民の見聞をまとめた『環海異聞』成立 |
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5 |
1808 |
間宮林蔵と松田伝十郎のカラフト探検。間宮海峡の発見 |
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イギリス軍艦が長崎に不法入港(フェートン号事件) |
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8 |
1811 |
幕府の天文方に蛮書和解御用の局が新設される |
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ロシア船艦長ゴロウニンらクナシリ島で捕らえられる |
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10 |
1813 |
日露間で双方の捕虜(ゴロウニン、高田屋嘉兵衛)を交換 |
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文政 |
元年 |
1818 |
イギリスの商船が浦賀に来航、通商を求めるが拒否される |
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5 |
1822 |
イギリスの捕鯨船が浦賀に来航、食料・水・薪ほかを給与される |
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7 |
1824 |
イギリスの捕鯨船員が常陸国大津浜(茨城県北茨城市)に不法上陸 |
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8 |
1825 |
幕府、諸藩に渡来異国船の打ち払いを命ず(無二念打払令) |
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『諳厄利亜人性情志』序 |
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青地林宗『気海観瀾』序 |
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11 |
1828 |
シーボルト事件(シーボルトは翌年国外退去を命じられる) |
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天保 |
8 |
1837 |
漂流民の送還と通商を求めて浦賀に来航したアメリカ船モリソン号を砲撃(モリソン号事件) |
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9 |
1838 |
『海防臆測』成立 |
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10 |
1839 |
蛮社の獄で、高野長英が投獄、渡辺崋山が蟄居を命じられる(のち自害) |
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11 |
1840 |
アヘン戦争始まる(1840〜42) |
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12 |
1841 |
高島秋帆、徳丸原(東京都板橋区高島平)で西洋砲術を実演 |
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中浜万次郎、嵐で漂流し、アメリカの捕鯨船に救助される |
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13 |
1842 |
清国、イギリスと南京条約を締結 |
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幕府、異国船打払令(無二念打払令)を改め、薪水食料を与えて帰帆させるよう命ず(薪水給与令) |
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中国で『海国図志』成立 |
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15 |
1844 |
オランダ国王、特使を派遣して開国・通商を勧告 翌年、幕府は勧告を拒否する旨の通告書をオランダ商館長に交付 |
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嘉永 |
2 |
1849 |
イギリス軍艦マリナー号、浦賀と下田に来航して測量を行う |
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3 |
1850 |
『気海観瀾広義』成立 |
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4 |
1851 |
中浜万次郎、アメリカ船で帰国 |
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中国で太平天国の乱始まる(1851〜64) |
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5 |
1852 |
オランダ商館長クルチウス、来年アメリカ使節が来航することを幕府に通報 |
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『万国旗章図譜』序 |
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6 |
1853 |
アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー、浦賀に来航。久里浜で大統領の国書を幕府側に渡す |
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ロシア使節プチャーチン長崎に来航、通商・国境問題を協議する |
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幕府、品川台場の築造を開始、大船の建造を解禁 |
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『遠西武器図略』刊行 |
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クリミア戦争始まる(1853〜56) |
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安政 |
元年 |
1854 |
ペリー再来航、横浜で日米和親条約(神奈川条約)調印 その後相次いで、イギリス・ロシアと和親条約を調印 |
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『外蕃容貌図画』刊行 |
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『三語便覧』刊行 |
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天文方の蛮書和解御用局を独立させ洋学所を設置することが企画される |
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この年、安政の東海・南海地震 |
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2 |
1855 |
長崎でオランダ軍人による海軍伝習開始 |
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『合衆国小誌』刊行 |
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安政の江戸地震 |
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3 |
1856 |
洋学所を蕃書調所と改称 |
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初代駐日総領事ハリス、下田に着任 |
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江戸で大風水害 |
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5 |
1858 |
井伊直弼が大老に就任、勅許を得ぬまま日米修好通商条約調印 その後、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約が結ばれる(安政の五ヶ国条約と総称) |
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外国奉行を設置 |
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尊王攘夷派への弾圧(安政の大獄)始まる |
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コレラ大流行 |
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6 |
1859 |
『五ヶ国条約并税則』が刊行される |
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横浜でロシア軍士官等が斬殺 |
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万延 |
元年 |
1860 |
遣米使節団アメリカへ(日米修好通商条約の批准書交換) |
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桜田門外の変(大老井伊直弼の暗殺) |
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『環海航路日記』刊行 |
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アメリカ公使館通訳ヒュースケン、江戸で清河八郎らに殺害される(1861年1月15日) |
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文久 |
元年 |
1861 |
『砲科新論』刊行 |
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南北戦争始まる(1861〜65) |
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2 |
1862 |
外国奉行水野忠徳ほか咸臨丸で小笠原へ |
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坂下門外の変(老中安藤信正負傷) |
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将軍家茂と和宮の婚儀挙行 |
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薩摩藩士、生麦村でイギリス人を殺傷(生麦事件) |
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蕃書調所を洋書調所と改称(翌年、さらに開成所と改められる) |
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長州藩、藩論を尊王攘夷とする |
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西周・津田真道・榎本武揚らオランダ留学へ |
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長崎で上野彦馬が写真館を開業 |
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『舎密局必携』刊行 |
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京都で尊王攘夷派による「天誅」事件相次ぐ |
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幕府の軍制改革、陸軍奉行を設置 |
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『官板バタヒヤ新聞』『官板海外新開』発行 |
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この年、ハシカ・コレラ大流行 |
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3 |
1863 |
徳川家茂、将軍として寛永11年(1634)以来の上洛。幕府、5月10日を攘夷の期限と上奏。将軍家茂、海路江戸へ帰る。 |
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長州藩、下関でアメリカ・フランス・オランダ船を砲撃 |
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薩摩藩、イギリス艦隊と交戦(薩英戦争) |
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薩摩藩・会津藩など公武合体派が、朝廷内の尊攘激派を駆逐(八月十八日の政変) |
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元治 |
元年 |
1864 |
水戸天狗党、筑波山で挙兵。のち、武田耕雲斎ら、加賀藩に投降 |
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新撰組、池田屋を襲撃(池田屋事件) |
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長州藩京都出兵して敗退(禁門の変)。第一次長州戦争。四ヶ国艦隊、下関を砲撃。 長州藩、三家老に切腹を命じ幕府に恭順の意を表す。 |
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中国で『万国公法』(マーチン漢訳)刊行 |
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『養生法』跋 |
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慶応 |
元年 |
1865 |
将軍家茂、長州再征のため江戸を出立 |
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横浜にフランス語学伝習所(語学所)開設 |
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横浜製鉄所竣工、横須賀製鉄所起工 |
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2 |
1866 |
薩摩・長州藩間で反幕同盟(薩長同盟)の密約 |
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第二次長州戦争戦闘開始 |
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将軍家茂大坂城で病没。幕府・長州間で休戦協定 |
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横浜に陸軍調練所(三兵伝習所)を開設 |
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3 |
1867 |
東海地方(三河・遠江・尾張)に発した「ええじゃないか」の乱舞が各地に広がる |
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将軍慶喜、大政奉還(同日、長州藩に対して討幕の密勅)。朝廷、王政復古を宣言 |
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『西洋各国盛衰強弱一覧表』刊行 |
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『歩兵令詞』刊行 |
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明治 |
元年 |
1868 |
鳥羽・伏見の戦い |
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江戸開城。明治と改元。 |
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『畢洒林氏万国公法』刊行 |
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『泰西国法論』刊行 |
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『英国歩兵操練図解』刊行 |
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2 |
1869 |
榎本武揚ら箱館五稜郭で降伏(戊辰戦争終わる) |