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42.元治甲子長州附属諸国脱走変名大略げんじかっしちょうしゅうふぞくしょこくだっそうへんめいたいりゃく

文久2年(1862)7月、長州藩では公武合体(幕府と朝廷が協力して時代の難局を乗り切るべしとする政策論)と積極的な開国を唱える長井雅楽(ながいうた)が失脚し、藩論は反幕府的な尊王攘夷に塗り替えられました。ところが翌年8月、会津・薩摩両藩の公武合体派勢力が長州藩の勢力を京都から追放(八月十八日の政変)すると、尊攘派は勢力挽回を期して、京都で過激な行動を企てます。

京都市中に火を放ち、混乱に乗じて朝廷を再び掌握しようとする計画は、しかし事前に新撰組に探知され、元治元年(1864)6月5日、新撰組は尊攘派が会合中の池田屋を襲撃し、尊攘運動に大きな打撃を与えました(池田屋事件)。事件の報は藩内の危機感を高め、長州藩は京都に出兵しますが、越前・会津・桑名・薩摩各藩の軍勢に敗れ、この戦いで長州藩は久坂玄瑞(くさかげんずい)ほか多数の人材を失いました(禁門の変)。

『元治甲子長州附属諸国脱走変名大略』は、近江出身の尊攘派で、維新後は元老院少書記官などを務めた城多董(きたただす 1832-91)の蔵書を修史局(明治政府の国史編纂局)で書写したもの。禁門の変に加わった長州ほか各藩尊攘派の名がそれぞれの変名(偽名)と共に挙げられ、あわせて池田屋事件の生々しい顛末も記されています。全1冊。

元治甲子長州附属諸国脱走変名大略

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