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23.小笠原島風土略記おがさわらじまふうどりゃっき

水野忠徳ら一行は、島民の抵抗にも遭わず予想以上の成果を挙げて文久2年(1862)3月9日に帰途につきますが、小花作之助(おばなさくのすけ 1829-1901)は同3年5月まで島に残り、島長として八丈島島民の小笠原入植の世話や島内の治安の維持に多忙な日々を過ごしました。

『小笠原島風土略記』は、小花が、「ボナナ」「パイナープル」ほか島の産物を紹介した書。あわせて中浜万次郎や平野廉蔵(越後の廻船問屋)を中心に小笠原近海で行われた洋式捕鯨についても触れられています。

小花が文久3年(1863)5月に島を去ったのは、前年8月に起きた生麦事件(島津久光の従者の薩摩藩士が行列を乱したとしてイギリス商人リチャードソンらを殺傷した事件)の影響で、幕府がイギリス艦隊による攻撃を恐れて、日本人島民の引き上げを決定したため。維新の混乱が収まったのち明治8年11月に小笠原が再回収されると、翌年、小花は小笠原出張所長として同島に赴任しています。全1冊。

小笠原嶋風土略記

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