激動幕末 −開国の衝撃−トップへ

ここから本文

26.横浜表英仏語学伝習生徒之義ニ付申上置候書付(江戸城多聞櫓文書)よこはまおもてえいふつごがくでんしゅうせいとのぎにつきもうしあげおきそうろうかきつけ

幕府の諸改革の一環として、横浜製鉄所、横須賀造船所の建設と陸軍改革などが決定すると、その指導のために来日する多数のフランス人の通訳を務める人材の育成も新たな課題となりました。幕府はフランス公使ロッシュの強い要請で、横浜にフランス語伝習所を開設し人材を養成することとし、元治2年(1865)2月から幕臣の子弟が続々と横浜に派遣されました。フランス語伝習所は、慶応元年(1865)8月に現在の神奈川県横浜市中区元浜町4丁目に落成。伝習生の数は翌年12月には59名に上っています。

一方、英語の方も文久2年(1862)に「神奈川表英学所」が認可され、医師で宣教師のアメリカ人、ブラウンやヘボンを招いて英語が教えられていました。

資料は、元治2年4月、横浜で語学伝習がますます盛んになることを予想して、川勝光之輔(かわかつこうのすけ)(歩兵頭)、栗本瀬兵衛(くりもとせへえ)、向山栄五郎(むこうやまえいごろう)(共に目付)ほかから老中阿部豊後守(あべぶんごのかみ)に提出された意見書。横浜で語学伝習中の伝習生が病気治療等のため寄宿舎を出て帰省を希望した場合には、私たちの判断で(いちいち江戸に届けを出さず)江戸へ帰すことにしたい、というのが第一条。続く第二条は伝習生の中途脱落を案じたもので、当地での語学伝習は翻訳や講読と違い発音(会話)が重要なので、年齢が高く柔軟な発音ができない者はいくら懸命に学んでも徒労に終わり伝習を中途で断念しなければならないでしょう、と厳しく指摘されています。

江戸城多聞櫓文書は、維新の混乱で江戸城の多聞櫓内に未整理のまま置かれていた幕府の公文書。現在までに約45,000点が目録化され、当館で閲覧されています。

川勝光之輔(名は広道。1830-1905)は翌年外国奉行に進み、栗本瀬兵衛(号は鋤雲。1822-97)は、外国奉行、箱館奉行を務め、慶応3年に駐仏公使に任命された人。維新後は言論人として活躍しました。向山栄五郎(号は黄村。1826-97)もやはり外国奉行、駐仏公使を務め、明治時代は漢詩人として晩年を過ごしています。全1通。

横浜表英仏語学伝習生徒之義ニ付申上置候書付

ボタンをクリックすると資料画像が表示されます

本文ここまで




ページここまで