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37.講釈聴聞姓名帳(江戸城多聞櫓文書)こうしゃくちょうもんせいめいちょう

書画会が派手に開催される一方で、幕府の学問所(昌平坂学問所)では、書生たちの規律のゆるみと無気力化が問題となっていました。とりわけ開国後は、漢学は実用性に乏しいとして人気が薄れ、学問所で定期的に行われる講釈の出席者も減少します。

資料は、元治2年(1865)2月に行われた学問所の講釈を聴講した人の姓名を書きとめたもの。学問所では、各藩の寄宿生や通学生などを対象にした「稽古所」講釈と、庶民も聴講できる「仰高門(ぎょうこうもん)」講釈のほか、幕臣を対象とした「御座敷(おざしき)」講釈が開かれていましたが、資料には、毎月4、7、9の日に開かれる「御座敷」講釈の7の日(7日・17日・27日)の聴講者の姓名が、午前の部と午後の部に分けて記録されています。テキストはいずれも『小学(しょうがく)』。午後の部(夕頬(ゆうがわ))は平均43名の聴講者がいますが、午前の部(朝頬)は、なんと3回とも聴講者は一人もいません。

不人気な午前の部を担当した講師は、御儒者の中村敬輔(なかむらけいすけ 名は正直。通称を敬太郎とも。号は敬宇。1832-91)。中村は翌年、幕府がイギリスに派遣した留学生12名の取締役として同地へ赴き、ロンドンで1年半ほど過ごしたのち、幕府倒壊後の慶応4年(1868)7月に帰国しました。維新後、静岡に移住して静岡学問所教授になった彼は、イギリスの友人フリーランドから贈られた伝記作家サミュエル・スマイルズの『自助論』を翻訳。明治4年(1870)、『西国立志編(さいこくりっしへん)』として刊行されたこの書は、福沢諭吉の『西洋事情』と並ぶ空前のベストセラーになりました。旧時代の不人気な漢学者は、わずか数年後に、新時代の読者の心を強くとらえたのです。全1冊。

元治二年乙丑二月座鋪定日七之日講釈聴聞姓名帳

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