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40.朝野纂聞ちょうやさんぶん

文久2年(1862)の7月から11月にかけて、京都では、尊攘(尊王攘夷)派によるテロの嵐が吹き荒れていました。朝廷が攘夷を宣言し、幕府もまた朝廷の意向を尊重する旨を明言し、長州藩でも尊攘派が勢力を盛り返す・・・。尊攘派にとって有利な状況の下、安政の大獄の際に尊攘の志士たちの動静を幕府に報告した島田左近(しまださこん)や多田帯刀(ただたてわき)ほかが天誅(天に代わって罰す)と称して惨殺され、その首が、罪状を記した斬奸状(ざんかんじょう)を添えて四条河原や粟田口などに晒されたのです。殺害を実行したのは、土佐の岡田以蔵(おかだいぞう)、薩摩の田中新兵衛(たなかしんべえ)たち。「人斬り」と呼ばれた彼らもまた後に非業の最期を遂げました。

『朝野纂聞』は、浦賀奉行、京都町奉行、江戸町奉行などを歴任した旗本で、書画の優れた鑑定家としても知られる浅野長祚(あさのながよし 号は梅堂。1816-80)が、手元にある資料を、内容や年に応じてまとめたもの。全9冊。桜田門外の変の関係資料、外交文書、コレラ予防の書など多彩な資料や記録が収められており、文久2年の天誅記事は8冊目所収。9冊中この8冊目だけがいつの頃か火災に遭い、焼損しています。

朝野纂聞

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