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Ⅰ.異国船来航

寛永16年(1639)にポルトガル船の来航を禁じて以来、オランダ、中国、朝鮮、琉球以外に国を鎖していた江戸時代の日本に最初に開国通商を迫ってきたのは、南下政策によって貿易の拡大と領土の拡張を図っていたロシアでした。第1回の遣日使節は、寛政4年(1792)9月に根室に来航したラクスマン。ラクスマンは江戸に直航して通商を促す国書を幕府に直接手渡したいと申し出ましたが、幕府の当局者は長崎以外に異国船の入港は認められないとしてこれを拒み、ラクスマンに対して長崎入港の許可書(信牌)を交付しました。

ラクスマンはしかし結局長崎へは向わず、大黒屋光太夫らロシアから伴ってきた漂流者を箱館で引き渡して帰国しました。それから12年後、文化元年(1804)9月に、ラクスマンに与えられた信牌の写しとロシア皇帝アレクサンドル1世の親書を帯びたレザーノフ(第2回遣日使節)一行が長崎に到着します。翌年3月まで滞在して交渉を求めた甲斐なく親書も受理されず退去を命じられたレザーノフは、帰国の途中、部下に樺太・択捉(えとろふ)島・礼文(れぶん)島などの日本人入植地への攻撃を命じ、幕府の危機感をいっそう高める結果になりました。

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