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Ⅳ.小笠原回収

幕末の日本は、海外から鎖国の戸を押し開けられただけではなく、みずから軍艦を派遣して平和的に領土を回収しています。1856年(安政3年)にワシントンで出版された『ペリー提督日本遠征記』をいち早く入手した幕府は、そこに記された当時「無人島」の名で呼ばれていた小笠原の開発プラン(小笠原への入植と捕鯨基地化)に注目し、領有を主張できる歴史的実績を背景に、同島を回収し、実効支配することを決定しました。それはたんに領土を確保するためではなく、捕鯨事業等によって国益増進を図ろうとする安藤信正(あんどうのぶまさ)・久世広周(くぜひろちか)ら幕府首脳の開明的な政策の一環だったと言われています。

文久元年12月4日(1862年1月4日)、外国奉行水野忠徳(みずのただのり 1815-68)以下百余名が咸臨丸(かんりんまる)に乗って品川沖を出航。一行のなかには、艦長で明治の鉄道建設に貢献した小野友五郎(おのともごろう 1817-98)、通訳の中浜万次郎(なかはままんじろう ジョン万次郎 1827-98)そして維新後に『幕末外交談』を著した田辺太一(たなべたいち 1831-1915)など錚々たる顔ぶれが揃っていました。咸臨丸は12月19日に小笠原諸島の父島に着き、水野らは入植者のアメリカ人セボリー、イギリス人ホートン、ウェッブらと会談して日本領であることを宣言し、さまざまな調査と測量を行ったのち、翌年1月、島民を集めて今後の島の規則を読み上げ、その英文と和文各1通を渡しました。

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