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Ⅱ.アヘン戦争の戦慄

オランダを除く西欧諸国に対する徹底排除の政策がとられるなか、漂流民の送還を機に通商を求めて浦賀沖に現れたアメリカ船モリソン号が砲撃を受けて退去を余儀なくされ(1837年 モリソン号事件)、このような幕府の姿勢を批判した高野長英(たかのちょうえい)・渡辺崋山(わたなべかざん)らもまた罰せられました(1839年 蛮社の獄)。幕府は江戸近海の防備体制を再検討し、長崎の町年寄で洋式砲術を学んだ高島秋帆(たかしましゅうはん)に徳丸が原(東京都板橋区高島平)で演習を行わせるなど海防と軍事力の充実を図りますが、特段の成果を見ないまま、「アヘン戦争の衝撃」によって、政策の変更を迫られることになります。

アへン戦争は、アへンの密輸を禁じる清国政府がイギリス商人が持ち込む大量のアヘンを焼却したことに対してイギリスが反発、強大な軍事力を行使した戦争(1840-42)。惨敗した清国は、1842年、巨額の賠償金や香港の割譲、領事裁判権等を内容とする南京条約を締結して中国半植民地化への道を開きましたが、このようなイギリスの圧倒的軍事力は、日本の幕府当局者や全国の知識人に大きな衝撃を与えました。天保13年(1842)7月、幕府は異国船打払令をより穏便な薪水給与令に改め、異国船来航の折は薪(燃料)や食料、水を与えて引き取らせることとしました。

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