ここから本文
川路寛堂(かわじかんどう)(1844-1927)
維新後、横浜で生糸の輸出を試みて失敗した川路寛堂(太郎)は、渋沢栄一らの推挙で、三等書記官(外務省七等出仕)として岩倉遣外使節団に随行。明治4年(1871)から同6年にかけて欧米諸国を巡覧して帰国しました。
岩倉使節団に随行中の明治6年(1873)2月、寛堂は水利堤防の実地調査のためオランダ滞在を命じられます。展示資料の「和蘭水理堤防取調之儀ニ付申牒」は、その経緯を明治8年6月に報告したもの。オランダ国内の河川の堤防を視察後、治水建築につき海牙(ハーグ)で専門家の意見を聴取する予定だったところ、使節団の会計事務が繁忙を極めていたため、やむなく5月3日にオランダを発って使節一行に合流し、「会計掛」に任命されたと記されています。連名の杉山一成も旧幕臣で、使節団の随行者の1人です。
本文ここまで