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冗費の削減を指示(多聞櫓文書)

[請求番号 多700090・多701547]

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小野友五郎(おのともごろう)(1817-98)

文久元年(1861)に笠間藩士から幕臣となった小野友五郎は、その後、勘定吟味役(勘定奉行の監査役)を経て、慶応3年(1867)10月に勝手方(財務担当)の勘定奉行に昇進しました。

展示資料(1)「御台様御用ほか筆墨紙共減方御用人へ被仰渡可然旨」と(2)「魯国コンシユルニ付添箱館表へ差遣候支配勘定ほかへ別段御手当被下候儀不可然旨」は、それぞれ経費節減を指示した文書で、担当部署から提出された伺の文書の下に添付されたものです。(1)は、筆墨紙を必要以上に購入するなど無駄が目立つ大奥に冗費節減を指示し、(2)ではロシアの公使に随行して箱館に出張する役人の手当を取上げ、長期の勤務でもないのに手当金などもってのほかである(「願之趣は不被及御沙汰」)としています。ともに慶応3年の文書。

小野友五郎ほか連名の4名はいずれも勘定奉行。このうち小栗上野介(忠順)は、横須賀製鉄所(造船所)の建設など、小野らと共に幕府の軍事力の強化と近代化、財源の確保等に尽力した旗本。小栗は慶応4年(1868)、抗戦論を主張して罷免されたのち、知行所の上野国権太村(現在の群馬県高崎市のうち)に土着しますが、同年閏4月、政府軍に捕らえられ斬首されました。享年42歳。


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