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川路寛堂(かわじかんどう)(1844-1927)
川路寛堂は、帰国後しばらく大蔵省で岩倉使節団の残務整理に従事しました。
展示資料は、その公務の余暇に執筆(翻訳)した書。澳太利亜(オーストリア)・風牙利(ハンガリー)・白耳義(ベルギー)・丁抹(デンマーク)・法蘭西(フランス)など諸国の1872年(明治5年)の「年報」を、英国人「マルチン氏」が編纂し、1873年に出版された原著の主要な部分を訳したものです。各国の政体や工業、商業、通貨、軍備等の概況が掲載されています。序文は寛堂と共に英国留学生の「取締」を務めた中村正直(敬輔)が執筆。明治7年(1874)刊。全2冊。
明治10年(1877)に官界を去った寛堂は、慶應義塾に程近い三田の地に私塾「月山学舎」を開いて英語を教授した後、福山尋常中学(広島県)教師、淡路高等女学校(兵庫県)校長などを経て、神戸の松蔭高等女学校の副校長に就任。大正11年(1922)に79歳で退職し、5年後に神戸で亡くなりました。
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