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成島柳北(なるしまりゅうほく)(1837-84)
幕府の奥儒者の家に生まれ、みずからも将軍に儒学の講義を行った成島柳北(甲子太郎)でしたが、文久3年(1863)、攘夷論と外圧が高まるなか、態度が定まらない幕府首脳を批判した狂詩を作り、閉門を命じられました。謹慎中、柳北は英語を学ぶと共に柳河春三など洋学者と交わって西洋の知識に触れ、慶応元年(1865)9月、幕府陸軍の歩兵頭並に登用されます。
展示資料は、あらたに歩兵頭並となった柳北に対して支給される俸禄の証明書(「御蔵御証文」)の下書。元高の300俵2人扶持に足高の690俵を加え、計1,000俵になったことがわかります。下書は表右筆が作成。疑問点を本人等(この場合は柳北)に問い合わせ修正したのち、老中(役職によっては若年寄)の判を得て本人に渡し、証文を受け取った本人はこれを書替奉行(切米手形の検査役)に提出。その後いくつかの手続きを経て、俸禄米が支給されます。
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