ここから本文
武士の必修だった伝統的な武芸も、幕末に洋式の軍備が導入されるようになると、次第に衰退を余儀なくされました。「水泳上覧」で披露された伝統的な泳法も例外ではありません。
展示資料の「水泳所御開之儀ニ付奉願候書付」は、元治元年(1864)10月に番方である新番(将軍の親衛隊のひとつ)の諏訪部龍蔵が提出した願書。諏訪部は軍艦所附属として水泳の指導をしていましたが、この年の春に軍艦所が火災で焼失してから水泳稽古が中止になったのを憂慮し、新たに「水泳所」(水泳訓練所)を開設するよう出願しました。
とはいえ幕府には新規に訓練所を設ける余裕はなく、諏訪部は上野牧・高田台牧(幕府直轄の牧。現在の千葉県流山市・柏市のうち)の遊閑地等を「水泳所助成地」として開発し、作物の収益等で水泳所を運営する構想を述べています。
参考に展示した「御軍艦所水泳教授方諏訪部龍蔵明細短冊」(多聞櫓文書)には、天保6年(1835)に家督相続して小普請に組み入れられてから、講武所水泳世話役などを経て万延元年(1860)に水泳教授方になるまでの諏訪部の経歴が記されています。
本文ここまで