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急養子願(多聞櫓文書)(きゅうようしねがい)

[請求番号 多000695・多000678]

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老い衰えた幕臣たちの身に次に訪れるのは人生の終焉、死です。

大名や幕臣の死は、それが相続(家の安泰)と深く関わる分、今日以上に大問題でした。当主が17歳未満で没した場合だけでなく、幕府に届け出た実子や養子がいないまま当主が亡くなると、家は断絶という武家相続の法があったからです。さすがにそれでは家の永続が困難であると、4代将軍家綱就任の年(1651年)に、たとえ死の寸前(末期)であっても、存命中に養子を願い出ればよしとする「急養子」(末期養子)が認められ、家断絶の危機は格段にすくなくなりました。ただしこれも当主が17歳未満や50歳以上の場合は急養子は認めないという条件付き。このため家の存続のために、年齢詐称はもちろん、死亡の事実まで隠蔽することが慣例化しました。

展示資料の「表高家有馬修理急養子奉願候覚」と「火消役松平熊之丞急聟養子奉願候覚」は、それぞれ旗本の有馬修理(19歳)と松平熊之丞(31歳)から差し出された「急養子願」と「急聟養子願」。病が重くもはや快復は望めないので、自分の死後は願書に挙げた者を養子(または聟養子)として相続させていただきたいという願書です。有馬修理も松平熊之丞も、実際にはすでに死亡していたのかもしれません。幕府もそれを承知の上で急養子を許可したと思われます。当主が突然亡くなっても家を相続させるのが幕府の“慈悲”でした。


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