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川路聖謨(かわじとしあきら)(1801-68)
嘉永6年(1853)7月、ロシアの海軍中将プチャーチンが長崎に来航。千島列島および樺太における日露の国境の画定と和親・通商条約の締結を求める国書をもたらしました。幕府は大目付の筒井政憲と勘定奉行の川路聖謨らを長崎に派遣し、プチャーチンとの交渉に当たらせます。日本側の方針は、ロシア側に明確な回答を与えないこと。両者の会談は、嘉永6年12月20日から翌安政元年1月4日まで計6回行われましたが、結局、国境問題も通商問題も確かな回答が得られぬままロシアの軍艦は長崎から退去し、日本側に不利にならぬよう交渉に努めた川路の手腕が高く評価されました。
展示資料には、川路とプチャーチンのやりとりが収録されています。たとえば、日露両国の通商が実現するには数年を要するとする日本側に、もっと早急に!と迫るロシア側に対して、川路は「そんなに気が短いと実現できることもできなくなってしまいますよ」(「気之短キ所置有之候テハナルヘキ事モ却テナラヌ様ニ可至候」)と老練に応じています。展示資料は、太政官および内閣記録局(課)の編纂事務の材料に用いられた「記録材料」のうち。
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