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15. 北海道上川郡に「離宮」設置

明治23年(1890)11月29日、大日本帝国憲法が施行されました。帝国議会が東京で行われ、東京の「首都」化は着々と進んでいたように見えますが、北海道を舞台に別の動きも起こっていました。「北京(ほっきょう)論」です。明治15年(1882)北海道を視察した岩村通俊(いわむらみちとし)会計検査院長は、北海道の中央部にある上川郡(現在の北海道旭川市域)に「北京」を定め、殖民局(しょくみんきょく)を設置すべきとする建議を行いました。のちに岩村は初代の北海道庁長官となりますが、岩村の後任として第2代北海道庁長官となった永山武四郎(ながやまたけしろう)は、明治22年(1889)11月、上川郡に「北京」を設定し、北海道開拓に弾みをつけるよう建議しました。翌12月に、内閣書書記官長小牧昌業(こまきまさなり)は、この件について法制局へ照会しました。法制局は、これに対して、

「『北京』を北海道に建設しても、『全国統治の首府』である『国都』としての実質が伴わない。『東亰』のほかに『西亰』が存在するように、『国都』は一か所とは限らないが、北海道に『新亰』を建設するのは名義に欠けるのではないか。」

として反対しました。

最終的には、宮内庁より「離宮」として設置する計画が出され、山県内閣はこれを閣議決定し、北海道庁に対して計画等に着手するよう指示が出されました。北海道庁により建設へ向けた現地調査も行われましたが、結局、「離宮」は建設されませんでした。

北海道石狩国上川郡ノ内ニ於テ一都府ヲ立テ離宮ヲ設ケラルヽニ付北海道庁ニ令シテ計画施設セシム

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請求番号:類00459100

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