変貌 −江戸から帝都そして首都へ−トップへ

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目次

  • I 東京と西京
  • II 江戸から東京へ
  • III 帝都への道
  • IV 東京再生

長禄元年(1457)太田道灌(おおたどうかん)によって築かれた江戸城。天正18年(1590)年徳川家康が江戸城を居城と定め、慶長8年(1603)に征夷大将軍に任ぜられ幕府を開いて以来、江戸は日本の政治の中心となりました。江戸時代中期以降は、経済・文化面においても、めざましい発展を遂げます。

明治改元の直前、江戸は東京と改められました。明治天皇の東京行幸後、次第に「首都」として成長していきます。ただし、東京への「遷都」が正式に発表されたことはありませんでした。大正12年に発生した関東大震災で東京は壊滅的打撃を受けます。「遷都論」さえ飛び出しましたが、「東京は帝国の首都」であると宣言され、急速に復興を遂げます。

戦時中、東京は東京都制という特別の制度の下に置かれますが、戦後、日本国憲法・地方自治法の施行により、「普通地方公共団体」として東京都は再出発。その後も、「首都圏」を形成するほどに発展をつづけています。

東京は、江戸から呼び名が変わった途端に、近代国家日本の「首都」として一挙に変貌を遂げたわけではありません。明治時代の東京では、明治以前の江戸の枠内で、政府の官庁が設置され、馬車・人力車・鉄道などの新しい交通機関が誕生し、公園が開設されました。明治時代後半に実施された「市区改正」でも、主に江戸時代以来の既成市街地の改造が行われました。そのような中で、特筆すべきは、三多摩の東京府への編入でしょうか。

明治時代の終わりから大正時代の初めにかけて、都市への人口集中や都市の膨張は、東京だけの問題ではなくなります。そのような状況に対する対応の一つが、都市計画法の制定です。都市計画法に基づいて「東京都市計画区域」が決定されますが、これが現在の「東京23区」の原型となっています。

関東大震災後の「帝都復興」。後藤新平内務大臣兼帝都復興院総裁の壮大なプランは、縮小に縮小を重ねることを余儀なくされましたが、それでもなお、「帝都復興」の成果は極めて大きなものでした。

東京は戦時中の空襲により壊滅的打撃をこうむりました。被害状況について確定的な数字はありませんが、死者・行方不明者は10万人以上、全滅・全焼家屋は約70万〜80万戸にのぼると考えられています。被害は、特に区部(35区)に集中していたと見られ、昭和15年(1940)10月の国勢調査で約670万人に達していた区部人口は、昭和20年(1945)11月の人口調査で約270万人に激減していました。

終戦後は、早くから復興の努力が重ねられ、東京は再び「首都」として巨大都市への道を歩みはじめます。高度成長や「首都圏」整備、東京オリンピック開催決定などの時代の流れのなかで、新宿副都心や首都高速道路の建設、地下鉄道網の拡充などが強力に推し進められました。

「当時の東京」で掲載した地図は、鈴木理生『江戸・東京の地理と地名』(日本実業出版社、2006年)と正井泰夫監修『図説歴史で読み解く!東京の地理』(青春出版社、2011年)を参考に作成いたしました。

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