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1. 大久保利通の大坂遷都論

慶応3年(1867)10月14日、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜は大政奉還を申し出ました。12月9日には、王政復古の大号令が発せられ、天皇を中心とする新政府が樹立されました。新政府は、摂政・関白・幕府を廃止し、天皇のもとに、総裁(そうさい)・議定(ぎじょう)・参与(さんよ)の三職(さんしょく)を置きました。新政府の最高官職であり政務を統括する総裁には、有栖川宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王が就任しました。

慶応4年(1868)、鳥羽伏見の戦争で旧幕府軍が敗れた直後の正月17日、新政府の参与大久保利通(おおくぼとしみち)は、総裁有栖川宮熾仁親王に、大坂遷都を建言しました。大久保は、

「未曾有の大変革にあたり、天皇のいらっしゃる所を『雲上(うんじょう)』、公卿を『雲上人(うんじょうびと)』と呼んでいるように、ごく一部の公卿以外は天皇と接することもできずに『上下隔絶(じょうげかくぜつ)』している弊習を打開しなければならない。天皇は、西欧の君主のように、国中を視察し、民を大切に育て、広く民に敬愛される君主となられることが重要である。そのためには、遷都が必要であり、遷都の地としては、他国との外交、富国強兵、軍備増強等において、地形的に『浪華(なにわ)』、つまり、大坂が適当である。」

と主張しました。

このとき、大坂遷都論は採用されませんでしたが、同年3月には天皇の大坂行幸が実現します。

参与大久保利通遷都ノ議ヲ上ル

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