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35.瓶入りの砂 ―足尾銅山鉱毒事件関係資料
日本における公害事件第1号といわれる足尾銅山鉱毒事件の関連資料です。古河市兵衛による足尾銅山発掘に伴い、鉱毒が渡良瀬川に流出した本事件は、問題解決に尽力した田中正造の足跡とともによく知られています。当館には、明治30年(1897)に内閣に設置された「足尾銅山鉱毒事件調査委員会」および35年の「鉱毒調査委員会」に関する資料が所蔵されています。
明治29年には大規模な洪水が発生し、農地に大きな鉱毒被害をもたらす結果となりました。田中正造は渡良瀬村に鉱毒事務所を設け、被害地の一体化をはかり、議会では鉱業停止を要求しました。
同年11月、農商務省は技師を派遣して被害情報を収集するとともに、翌年3月には「足尾銅山鉱毒事件調査委員会」が内閣に設置されました。本委員会において、7度にわたる調査報告を行い、5月には古河に対して鉱毒予防の命令が出されましたが、同年中に委員会は解散しました。
展示資料の報告書は、農商務省から委員会に提出された調査報告です。農事試験場の技師であり、また委員会のメンバーであった坂野初次郎(初二郎)による調査報告で、「渡良瀬川沿岸農作被害地ニ関スル分析試験成績」としてまとめられています。この中に、渡良瀬川の土砂に含まれる銅の割合を測定した記録があり、その参考資料として瓶入りの砂が添付されました。
調査を行った坂野は、本調査の前後にもたびたび被害地へ足を運んでいます。明治36年の彼の叙勲の記録には、群馬・栃木両県への実地調査中に「病ヲ発シ目下危篤」に陥ったと記されており、技師としての生涯を鉱毒調査にささげた人物といえるでしょう。
- 関連リンク
- 小池政幸「国立公文書館蔵「足尾銅山鉱毒事件」関係資料について」(『北の丸』第3号)(別ウィンドウで開く)
- 関連資料「鉱毒調査委員会」関係資料より
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「足尾銅山鉱毒事件調査委員会」は明治29年12月に解散しましたが、その後明治35年に「鉱毒調査委員会」が発足しました。本委員会は翌36年12月まで設置され、「足尾銅山ニ関スル報告書」のほか「小坂鉱山ニ関スル報告書」「別子鉱山ニ関スル報告書」を内閣総理大臣に提出しました。
この「鉱毒調査委員会」に関する文書として、「鉱毒に関する植物試験報告写真原版」や「別子銅山新居浜溶鉱炉煙害関係資料」などがあります。
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