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26.個人からの建白 ―明治7年の建白書
慶応3年(1867)に出された王政復古の大号令には、旧弊一新のため言語の道を洞開し、貴賤に関わりなく献言するよう記され、輿論(よろん)採択の方法として建白書の提出が認められました。征韓論で敗れた江藤新平・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣らによって左院に提出された「民撰議院設立建白書」は、自由民権運動の先駆けとなったことで有名です。「天下ノ公議ヲ張ルハ民撰議院ヲ立ルニ在ル而已(のみ)」として、議会の必要性を説くとともに、有司専制(藩閥政治)を批判しています。
このように、よく知られている建白書がある一方で、受理されなかった無名の建白書も多数存在します。明治初期の建白書は、まず立法諮問機関の左院で受け付けられ、上申(陳)の必要があると判断されたものは正院に送られました。建白書には、正院に上申されたもののほか、左院で「参考留置」となったものや、提出者に「返却」されたものがありました。
例えば、先の民撰議院設立建白書(明治7年1月17日、第11号)と同年に左院に届けられた三重県士族立入奇一による「建言採用之上ハ建白人ヘ賞ヲ行之議」(第205号)は、「返却」となりました。その内容は、建白が採用された者に対し賞を与えてはどうかというものでしたが、左院は「憂国之志アリテ建言スル何ソ其賞ヲ論スルノ理アランヤ」と回答し、受理しませんでした。一方で、この後提出された建白書の郵送料を無税とする立入の建言は採用され、建白書の無税逓送が実現しました。
- 関連リンク
- 柴田和夫「国立公文書館所蔵明治初期建白書について」(『北の丸』第2号)(別ウィンドウで開く)
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