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屋代弘賢(やしろ・ひろかた)の博学な知識のほとんどは書物から得たものでしたが、彼自身は文献的知識だけでは不十分であることをよく心得ていたようです。それは、文化年間(1804-18)に「諸国風俗問状」と題する質問状を木版で刷り、日本各地に送って回答を求めるという斬新な調査方法を採用した事実からもうかがえます。
質問は「門松の事」「ひな祭の事」など131項目にわたり、それぞれの地方の年中行事や風習が細かく問われています。弘賢のこの試みは、のちに日本民俗学を確立した柳田國男(やなぎた・くにお)によって、民俗学研究の先駆的業績であると高く評価されました。
「問状」がどのくらい発送され「答書」(回答)が何編届いたのか、正確な数はあきらかでありませんが、現在までに展示資料を含め約20編の「答書」が確認されています。
『風俗問状答』は、出羽国秋田領の「答書」。主な執筆者は秋田藩の藩校明徳館の儒者、那珂通博(なか・みちひろ)(1748-1817)で、跋文(ばつぶん)から本書が文化11年(1814)に成立し、祭礼等の彩色図は文章では回答しにくい点を補うために添えられたことがわかります。内務省旧蔵。全5冊。
『御問状答書』は、備後国福山領からもたらされた回答書。執筆者は福山藩の儒者で詩人としても名高い菅茶山(かん・ちゃざん 1748-1827)で、文政2年(1819)の成立とされています。内務省旧蔵。全5冊。
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