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[請求番号 265-0286(冊次114)]

勝安房等ノ動静探索書(岩倉具視関係文書)(かつあわとうのどうせいたんさくしょ<いわくらともみかんけいぶんしょ>)

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勝海舟(1823-99 名は義邦。通称麟太郎<りんたろう>。海舟は号。明治維新後、安芳<やすよし>を別名に)は、小普請組旗本勝小吉(左衛門太郎惟寅<これとら>、 隠居して夢酔)の子として本所亀沢(墨田区亀沢)で誕生。剣術・蘭学・西洋兵学を学び、ペリー来航(1853年)後に幕府に海防に関する意見書を提出して頭角をあらわし、講武所砲術師範役、軍艦奉行並を経て、元治元年(1864)に軍艦奉行を拝命し、安房守の称を許されました。万延元年(1860)に日米通商条約批准使節団が米国に派遣された際には咸臨丸(かんりんまる)を指揮して米国に渡航。慶応4年(1868)には、西郷隆盛に説いて官軍の江戸城総攻撃を中止させ、無血開城を実現しました。

維新後も徳川家や政界の相談役として独自の地位を占めた勝は、明治6年(1873)に参議兼海軍卿となり、明治20年(1887)に伯爵を授けられ、翌年、枢密顧問官に。明治32年(1899)没。享年77歳。著書に『吹塵録』(→展示資料52)、『海軍歴史』『陸軍歴史』『開国起原』などがあります。

展示資料は、岩倉具視関係文書のうち、明治10年(1877)の『諸件雑集』に綴じられた、勝海舟等の動静に関する探索書。折しも西南戦争の最中で、勝や山岡鉄太郎(鉄舟)の動静が詳しく報告されています。当時、西郷らに同情的で旧幕臣等に金銭的な援助を行っていた勝を、新政府が不穏な人物として警戒していた様子がうかがえます。

岩倉具視関係文書は、岩倉具視の伝記『岩倉公実記』の編纂に用いられた資料の一部。全122冊。


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