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[請求番号 特094-0003]

北夷分界余話(国の重要文化財)(ほくいぶんかいよわ)

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江戸時代に蝦夷地・カラフト・千島列島など北方地域を探検した人物には、近藤重蔵(こんどう・じゅうぞう)、最上徳内(もがみ・とくない)、松浦武四郎(まつうら・たけしろう)らがいますが、なかでも間宮林蔵(まみや・りんぞう)は、間宮海峡の発見者として世界にその名が知られています。間宮林蔵(1780-1844)は、安永9年(1780)に常陸国筑波郡上平柳(かみひらやなぎ)村(現在は茨城県つくばみらい市)の農家に誕生。算術の才能を認められ、江戸へ出て村上島之丞(秦檍丸<はた・あわぎまる>とも。絵図師で探検家)に地理学を学んだのち、寛政11年(1799)、幕府の命で蝦夷地に渡航する島之丞に従って同地に赴き、箱館で伊能忠敬(いのう・ただたか)に師事して測量学を学びました。同12年(1800)に「蝦夷地御用御雇」(えぞちごようおやとい)となり、文化5年(1808)に松田伝十郎と共に樺太探検を命じられ、カラフトと大陸の間に海峡があることを発見。翌6年には、大陸に渡り黒竜江下流のデレンの地で中国清朝の官吏と会見しました(このときの記録をまとめたのが『東韃地方紀行』)。

文政11年(1828)のシーボルト事件(高橋景保らがオランダ商館の医師シーボルトに国外持出し禁止の地図等を提供して処刑された事件)では、事件発覚のきっかけとなった情報を幕府に提出。その後密貿易の探索などを務め、天保15年(1844)に65歳で没しました(生年を安永4年とする説では、70歳)。死亡時の職名は勘定奉行に属する職禄50俵3人扶持の「御普請役」でした。

展示資料の『北夷分界余話』は、村上貞助(村上島之丞の門弟で島之丞の死後その養子となる。松前奉行所同心)が、間宮林蔵


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