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[請求番号 150-0170(冊次7)]

遠山左衛門尉自作詩歌(嘉永雑記)(とおやまさえもんのじょうじさくしいか<かえいざっき>)

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遠山景元(とおやま・かげもと 金四郎のち左衛門尉 1793-1855)は、遠山景晋(かげみち)の実子で、江戸町奉行を務め名奉行と謳われた旗本です。永井家から遠山家に養子に入った景晋は、自分が養子入りしたのちに養父景好(かげよし)がもうけた景善(かげよし)を養子(遠山家の跡継ぎ)とし、景善はまた景元を自らの養子としました。このような複雑な家庭事情から、青年時代の景元は、無頼の徒と交じり放蕩に耽ったとも言われています。この頃の呼び名が遠山の金さん(あるいは金ちゃん)=B

文政7年(1824)に養父景善が没し、同12年に景晋が隠居したのに伴って家督を相続した景元は、その後、小納戸、小普請奉行、作事奉行、勘定奉行を経て、天保11年(1840)に町奉行(北町奉行)を拝命。老中水野忠邦(ただくに)が断行した天保の改革で、穏健派の景元は、強引に改革を実現しようとする鳥居耀蔵(とりい・ようぞう)(鳥居甲斐守忠耀)らと対立して大目付に転じますが、弘化2年(1845)に再び町奉行(南町奉行)になり、嘉永5年(1852)3月、60歳で辞職しました。同じ人物が町奉行に再任されるのは初めてのことでした。安政2年(1855)没。享年63歳。

展示資料は、江戸の下谷に道場を開き剣術を指南した藤川貞(号は整斎。1791-1862)の雑録『嘉永雑記』に書きとめられた遠山景元の漢詩と和歌。町奉行を辞職して隠居した折の作品で、自らを「六十翁帰雲(きうん)」と称しています。

『嘉永雑記』は、全10冊。


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