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大野権之丞広城(おおの・ごんのじょうひろき)が、丹波国綾部藩主九鬼隆都(くき・たかひろ)に預けられた一件書類は、藤川貞(号は整斎)の雑録『天保雑記』に「大野権之進(丞)御預一件」と題して書きとめられています。
天保12年(1841)6月10日、評定所で54歳の広城に申し渡された罪状は、「御政務筋に拘(かかわ)り候不容易事共(よういならざることども)彫刻いたし、絵本屋伊助え相渡候段不届之至に候」というもの。16歳の長男鏃之助に対しても、改易の処分が下されました。当時、広城は小十人(こじゅうにん)本多左京組に所属。評定所で判決を申し渡したのは、岡村丹後守直恒(大目付)。遠山左衛門尉景元(町奉行)と桜井庄兵衛勝彦(目付)が審理に加わっていました。
展示資料には、大野父子だけでなく、『殿居嚢』『青標紙』等を武家に販売して利益を得た伊助、喜兵衛らが「江戸払(えどばらい)」(追放刑の一種)になったことや、天保13年に鏃之助が幽囚中に没して綾部に埋葬された亡父の墓参を許されたこと、そして広城の辞世なども記されています。
『天保雑記』は、全56冊。
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