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明治7年(1874)に大蔵省を辞職した福地源一郎は、『東京日々新聞』に入社し、精力的に論説の筆を振るいます。明治10年(1877)2月に西南戦争が勃発すると、自ら現地に赴いて戦地の状況を紙上に連載。このため『東京日々新聞』の部数は急増し、同年4月には、木戸孝允(きど・たかよし)の勧めで明治天皇に戦況を奏上しました。この間、福地は『東京日々新聞』(日報社)の社長に就任しています。
『新聞記事之儀ニ付奉願候書付』は、明治10年2月15日に福地(肩書きは「太政官記事印刷御用/東京日々新聞/日報社長」)が太政官(政府)に提出した願書。内容は、「鹿児島変動」(西南戦争)に関する誤報やデマの広がりを抑え正確な報道が行えるよう、関係の官報や最寄りの地方官からの報告など、確実な情報の掲載を許可してほしいというもので、翌日さっそく許可の旨が口達されました。
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