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[請求番号 150-0156(冊次2)]

矢部駿河守御預之節物語之事(弘化雑記)(やべするがのかみおあずけのせつものがたりのこと<こうかざっき>)

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大坂町奉行時代、飢饉で苦しむ人々を救済して名奉行と謳われ、幕臣の間でも能吏にして人格者と評判が高かった矢部駿河守定謙(やべ・さだのり 通称は彦五郎。1789-1842)も、悲劇的な最期を遂げたことで知られています。

先手鉄炮頭、火付盗賊改、堺奉行、大坂西町奉行、勘定奉行などを経て、天保12年(1841)に町奉行(江戸南町奉行)を拝命した定謙は、天保改革の施策をめぐって老中水野忠邦(みずの・ただくに)と対立。水野と共に改革の強行を主張する鳥居耀蔵(とりい・ようぞう)らの暗躍によって、同年12月に罷免され、さらに翌年3月には、冤罪を訴えて幕政を批判したことを咎められ、伊勢国桑名藩主松平定猷(まつだいら・さだみち)に「御預」となり、同時に養子の矢部鶴松も改易になりました。同年7月に桑名で死去。享年54歳。死因は餓死。水野や鳥居に抗議して断食を続けた末の壮絶な自死でした。

鳥居忠耀の画策で失脚し異常な死を遂げた定謙を哀れむ人は多く、死後さまざまな逸事が流布し、藤川貞の雑録『弘化雑記』にも書きとめられています。「矢部駿河守御預之節物語之事」もそのひとつ。桑名に幽閉された定謙が「恨むべきもの」として水野忠邦、鳥居耀蔵そして榊原主計頭(かずえのかみ 名は忠義。目付)の3人の名を挙げ、「右三人を其侭(そのまま)には差し置かず候、是非に存念通さずには差し置かず」(恨みを遂げずにおくものか)と語ったことなど、生々しい証言が記されています。水野、鳥居、榊原の3人はその後失脚。改易となった鶴松は、弘化2年(1845)に200俵を下され(定謙は500石)小普請入りを許されまし


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