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[請求番号 217-0034(冊次27)]

公人朝夕人(視聴草)(くにんちょうじゃくにん(みききぐさ))

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江戸幕府の職制の中には、将軍の上洛参内や日光参詣の折に、装束を着けているため便所で容易に用を足せない将軍に、「便竹」あるいは「装束筒」と呼ばれる尿筒(銅製で筒状の溲瓶<しびん>)を差し出して排尿させる「公人朝夕人」という特殊な役職もありました。『明良帯録』(→展示資料1)には、公人朝夕人は世襲で定員1名。「昇路なし」(他に昇進することはない)とあります。

展示資料は、幕末の旗本宮崎成身(通称は次郎大夫)の雑録『視聴草』の27冊目に綴じられた、公人朝夕人の起源沿革を記した書付。文政4年(1821)3月、目付の大草主膳(名は高好)から塙検校(塙保己一)に対して公人朝夕人に関する問い合わせがあり、上京中で不在の検校に代わって、和学所(和学講談所)出役頭取の飯島平次郎と中山平四郎が回答したものです。

公人朝夕人の起源は鎌倉時代にさかのぼり、慶長8年(1603)に家康が参内した折に、尿筒の役を家職としていた土田氏の先祖を召したのが徳川幕府における公人朝夕人の最初だとか。以後、2代将軍秀忠や3代将軍家光の参内の折にも随従した旨が記されています。公人朝夕人は同朋頭支配で、10人扶持。土田氏が代々務めました。『視聴草』は、教部省旧蔵。全176冊。


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