ここから本文

22
[請求番号 217-0029(冊次4)]

加役方人足寄場に付長谷川平蔵え御書付(落葉集)(かやくかたにんそくよせばにつきはせがわへいぞうへおかきつけ)

  • 写真

写真をクリックすると拡大画像が表示されます


国民に広く知られた江戸前期の旗本の代表が大久保彦左衛門忠教だとすれば、中後期の代表は、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公にもなった長谷川平蔵かもしれません。

長谷川平蔵宣以(のぶため 1745-95)は、京都町奉行を務めた旗本長谷川備中守宣雄(のぶお 通称は同じく平蔵)の子として江戸で誕生。明和5年(1768)に将軍に初御目見したのち、西丸書院番、同徒頭(かちがしら)を経て、天明6年(1786)に先手弓頭となり、翌年9月、火付盗賊改(ひつけとうぞくあらため)(先手頭のうちから任命される)となりました。「加役」は火付盗賊改の俗称。厳密には犯罪が増加する10月から翌年3月にかけて増員された火付盗賊改を「加役」と称しました。

火付盗賊改は、町奉行所の手に負えない凶悪犯や群盗の取締りと捕縛に当たる役。平蔵はそのすぐれた働きによって、捕物の名人と讃えられ、老中松平定信の側近水野為長(ためなが)の『よしの冊子(そうし)』にも、平蔵の人気の高さが「町々にても平蔵様、平蔵様と嬉しがり候由」と記されています。

長谷川平蔵の名が歴史に刻まれたのは、しかし捕物の名人としてではなく、人足寄場(にんそくよせば)の設立と維持に尽力したため。天明飢饉後に激増した江戸の無宿や浮浪人を一箇所に集め、犯罪者化を防ぐと共に職業教育(授産)を施して更生させるという平蔵の構想が、松平定信に採用され、石川大隅守の屋敷裏の低湿地16,000坪に、寛政2年(1790)2月、人足寄場(当初の名は「加役方人足寄場」)が開設されました。平蔵は、5年後の寛政7年(1795)に51歳で病没。人足寄場は寛政4年から寄場奉行


本文ここまで


ここからメニュー

役職と職場
役人の手引書
さまざまな仕事
異才の幕臣たち
賞罰と俸禄
幕末から明治へ
幕臣の住宅事情

メニューここまで


ページここまで