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幕臣出身の新聞人といえば、柳河春三や栗本鋤雲、成島柳北(なるしま・りゅうほく)らと並んで、福地源一郎の名を挙げなければなりません。
福地源一郎(ふくち・げんいちろう 号は桜痴<おうち>。1841-1906)は、長崎で医師の長男として誕生。オランダ語を学んだのち、幕府の海軍伝習生として長崎にいた榎本武揚(後述)などの勧めで江戸に出て、森山多吉カ(もりやま・たきちろう)に師事して英語を学び、「外国奉行支配通弁御用御雇」として幕府に出仕。文久元年(1861)と慶応元年(1865)に幕府使節団に随行して渡欧し、同年に御目見以上に昇進しました。
維新後、『江湖(こうこ)新聞』を発行(1868年)。新政府批判の罪で逮捕されますが、放免され、大蔵省に出仕。明治4年(1871)に岩倉遣外使節に随行し、帰国後、『東京日日新聞』の主筆として社説を担当しました。四十代半ば以降は演劇改良運動に力を注いだほか、政治小説、戯曲、歴史書を執筆。明治37年(1904)に衆議院議員に当選したのち、同39年に66歳で没しました。代表的な著書に『幕府衰亡論』『懐往事談』『幕末政治家』があります。
展示資料『外国交際公法』は、明治元年(1868)10月、静岡から東京に戻り「鬱々楽マス」過ごしていた福地源一カが、友人の勧めで翻訳した英文の外交ガイドブック。「外国事務大臣ノ職務」や「公使在職中ノ心得方」など、外交の基本事項が8編53章にわたって解説されています。福地は、杉浦愛蔵、箕作麟祥(みつくり・りんしょう)らが作成したフランス語版の訳稿を参考にして翻訳を完成。明治2年(1969)に出版されました。全2冊。
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