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[請求番号 217-0034(冊次116)]

大橋近江(視聴草)(おおはしおうみ<みききぐさ>)

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目付、長崎奉行を経て勘定奉行に。出世コースを順調に歩んできた大橋近江守親義(おおはし・おうみのかみちかよし)が、取り返しのつかない挫折に見舞われたのは、宝暦8年(1758)、53歳の年でした。

この年、美濃国八幡(はちまん)藩(郡上<ぐじょう>藩とも)の藩主金森頼錦(かなもり・よりかね)が、年貢増徴(増税)策によって領内に深刻な不穏を引き起こした(宝暦の郡上騒動)ことを咎められて、改易(かいえき 領地没収)。この一件で金森氏と結託して騒動を拡大させる原因を作ったとして、本多正珍(まさよし 老中)、本多忠央(ただなか 若年寄)、曲淵英元(まがりぶち・ひでちか 大目付)らと共に厳しい処分を受けたのでした。

大橋親義に対する幕府の処分は、陸奥国中村藩主相馬尊胤(そうま・たかたね)に身柄を預け、終身禁固(「永御預<えいおあずけ>」)とするというものでした。かくして親義の身は同藩の城下(現在の福島県相馬市)に移され、宝暦12年(1762)9月に57歳で病死するまで、同地で厳しい監視の下に置かれました。

『視聴草』には、「大橋近江」と題して、親義の没後に幕府の質問に対して相馬家が回答した文書が書き写されています。文書の内容から浮かび上がるのは、勘定奉行という要職にあった親義が、楊枝や鋏、火箸など凶器となりうる(自殺に用いられる可能性も)品の使用を許されず、蚊屋は提供されても団扇は与えられず、冬も火鉢だけで暖を取っていた様子です。監視も厳重で、幽閉されていた座敷の入り口には、交替で常時6名が詰めていたとか。


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