ここから本文

48
[請求番号 多012756]

丁抹国条約取結委任阿蘭陀コンシユルポルスブルーグと談判候儀全権委任状(でんまーくじょうやくとりむすびいにんおらんだこんしゆるぽるすぶるーぐとだんぱんそうろうぎぜんけんいにんじょう)

  • 写真

写真をクリックすると拡大画像が表示されます


明治時代の新聞人として足跡を残した栗本鋤雲(くりもと・じょうん 1822-97)も、幕臣出身者のひとりです。

栗本鋤雲、名は鯤(こん)。号は匏庵(ほうあん)(鋤雲は別号)。幕府の医師喜多村槐園の3男として神田猿楽町で誕生。安積艮斎(あさか・ごんさい)の塾や昌平坂学問所で学んだのち、幕府の奧医師栗本家に養子入りし栗本瑞見(ずいけん)(6世)を襲名しますが、汽船観光丸の試乗に応募したことが上司の岡櫟仙院に譴責され、奥医師を免ぜられ箱館在勤に。同地で病院を建設するなどの業績を残した栗本は、フランス人メルメ・ド・カション(Mermet de Cachon)にフランス語を学び、文久2年(1862)には医籍を士籍に改め、以後、小栗忠順(おぐり・ただまさ)と共に幕府親仏派の中核として活動することになります。フランスの援助による横須賀造船所やフランス仕官の陸軍伝習の実現に努めたほか、外国奉行として諸外国との交渉に当たりました。

維新後は『横浜毎日新聞』を経て、『郵便報知新聞』の主筆となり、犬養毅(いぬかい・つよし)、尾崎行雄(おざき・ゆきお)ら後進を育成。明治30年(1897)に76歳で没しました。

江戸城多聞櫓文書(→展示資料47)には、幕府の外国奉行時代の栗本鋤雲(当時は栗本安芸守)が登場する文書も含まれています。

展示資料は、外国奉行の栗本安芸守(鯤)・柴田日向守(剛中)と目付の大久保帯刀の3名を、丁抹(デンマーク)との条約締結交渉の全権に任じる慶応2年(1866)11月の文書。デンマーク側の全権は、オランダ総領事ファン・ポルスブルック


本文ここまで


ここからメニュー

役職と職場
役人の手引書
さまざまな仕事
異才の幕臣たち
賞罰と俸禄
幕末から明治へ
幕臣の住宅事情

メニューここまで


ページここまで