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江戸後期の異才の幕臣といえば、平山子竜(ひらやま・しりょう 1759-1828)の名も挙げなくてはならないでしょう。
平山子竜、名は潜。通称は行蔵。号は兵原、練武堂ほか(子竜は字<あざな>)。幕府の伊賀組同心(御目見以下)の家に生まれた子竜は、昌平坂学問所で学んだのち聖堂出役や御普請役見習を務め、39歳で辞職。その後は四谷伊賀町で家塾を開き、武術や学問の指導と著述に努めました。門人には幕臣でのちに講武所の剣術師範となる男谷精一郎(おだに・せいいちろう)や、『平子竜先生遺事』を著し、子竜の奇人異才ぶりをあざやかに伝えた勝小吉(かつ・こきち)(勝海舟の父)などがいます。
生涯独身。「兵原草廬」と命名された居宅で武具と書物に囲まれ古武士さながらの日々を過ごした子竜でしたが、ロシア船によって樺太や択捉(エトロフ)などが襲撃されたことに危機感を抱き、文化4年(1807)に幕府に建白書を差し出すなど、海防の必要を積極的に唱えた人でもありました。
『海防問答』は、文化13年(1816)序。問答形式でロシアなど異国の侵犯から国を守る方法を説いた書。「海防問答図式」と題した付図も添えられています。
展示資料は、昌平坂学問所旧蔵。全4冊。
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