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竹橋蠹簡(ちっきょうとかん)

[請求番号 212-0286]
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竹橋余筆(ちっきょうよひつ)

[請求番号 212-0285]
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大田南畝(おおた・なんぽ 名は覃。通称は直次郎。1749-1823)は、幕臣(御家人)であると同時に、南畝、四方赤良(よものあから)、杏花園、蜀山人等の号で知られる江戸後期の代表的な戯作者、文人。19歳の年に『寐惚先生文集』(ねぼけせんせいぶんしゅう)で鮮烈なデビューを飾ったのち、狂歌・狂詩・洒落本・黄表紙にその才能を発揮しました。

南畝は、しかし天明7年(1787)に老中松平定信が幕臣の綱紀粛正を実施したのに伴い戯作の筆を折り、寛政6年(1794)に46歳で幕府の学問吟味を受験。優秀な成績を収め、同8年に支配勘定(勘定奉行配下で御目見以下。役高100俵)に採用されました。

以後、幕臣として『孝義録』(こうぎろく)の編纂等にたずさわったほか、大坂銅座詰(おおさかどうざづめ)や長崎出張を拝命。大坂や長崎に赴き公務にいそしむと共に、新たな知識を吸収して教養に磨きをかけました。文政6年(1823)没。享年75歳。

『竹橋蠹簡』『竹橋余筆』は、寛政12年(1800)に「御勘定所諸帳面取調御用(とりしらべごよう)」(勘定所の書物蔵にある古い書類を整理する仕事)を命じられた南畝が、同年2月から秋にかけて、10人余の同僚と竹橋(現在の国立近代美術館の裏、機動隊庁舎のあたり)の勘定所の書物蔵にこもって古い書類を整理した際にまとめた古文書集。

「蠹簡」は虫食(むしば)まれた書物や書類の意。南畝はほかに『竹橋余筆別集』も作成し、これら3部に、みずから有用であると評価した書類を選別して収録しました。古い書類の整理に明け暮


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