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[請求番号 177-1137]

未曾有記(続未曾有記・未曾有後記・続未曾有後記とも)(みぞうき)

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遠山金四郎(きんしろう)、遠山左衛門尉(さえもんのじょう)と聞くと、江戸町奉行を務めた遠山の金さん≠アと遠山景元(かげもと)が第一に思い浮かびますが、同時代の人々の間では、景元以上に父の景晋(かげみち)がよく知られていました。 

遠山景晋(金四郎のち左衛門尉 1764-1837)は、旗本永井筑前守直令(なおよし)の4男として宝暦14年(1764)(幕府への届では宝暦2年)に生まれ、旗本遠山家に養子入りして家督を継承。西丸小性組、徒頭、目付、長崎奉行、作事奉行、勘定奉行を歴任して(計43年間勤務)、文政12年(1829)に職を退き、天保8年(1837)に74歳で没しました。幕府の役人として幾多の功績を残したばかりでなく、隠居後、楽土(らくど)と号して飄々(ひょうひょう)と過ごしたその老境も、当時の人々から絶賛されました。

『未曾有記』は、寛政11年(1799)3月20日に蝦夷地を目指して江戸を発ち、9月14日に江戸に帰るまでの出張紀行。この年、幕府が蝦夷地の経営と防備の強化のために「蝦夷地取締御用掛」を設置したのに伴う出張でした。『未曾有記』には、出張中の苦楽や折々の感慨が記されています。「未曾有記」と題した理由を景晋は、「今回のように大規模な蝦夷地への派遣は幕府にとって未曾有であると同時に私のような一番士が選ばれるのも未曾有。遠山家の先祖にもこのような遠隔地に出張した方はいないから」(意訳)と述べています。

景晋はその後、文化2年(1805)にロシア使節レザーノフの長崎来航の処理で長崎と西蝦夷地に出張。同4年にはロシア船の択捉島襲撃の件で、蝦夷地に派遣されました。これらの出張旅行の


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