第二部 女性の社会進出

鈴木よね -家業を支える-

大正、昭和期に急成長を遂げ、三井やみつびしをしのぐほどの規模に成長した総合商社がありました。鈴木よね(1852~1938)を代表社員(社長)とする鈴木商店です。

明治10年(1877)、よねは洋糖を扱う貿易商の鈴木岩治郎と結婚します。明治27年、岩治郎が死去すると、鈴木商店は長男の2代目岩治郎が継いだものの、明治35年に引退。その後は、関係企業を統合して合名会社鈴木商店を設立し、よねが代表社員となりました。よねは、鈴木商店を自分のもとでまとめ上げる一方で、番頭である金子直吉に店の切り盛りを任せます。台湾で生産されるしょうのう油で大きな利益を上げた鈴木商店は急成長を遂げ、第一次世界大戦の好景気によって、さらに規模を拡大していきます。

23 実業に励む

鈴木よね緑綬褒章下賜ノ件

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大正4年(1915)、長年の事業への貢献が評価され、よねはりょくじゅほうしょうを受章しました。掲載資料は受章の際に提出された上申書です。初代岩治郎の死後、鈴木商店が急成長を遂げていったことが書かれています。

岩治郎(初代)の死亡時、鈴木商店の1年の商取引高は約500万円でしたが、大正3年には1億1,000万円、大正6年には10億円を超え、三井、三菱をしのぐと言われるほどの日本最大の総合商社となりました。しかし、大戦後の不景気で経営が悪化。昭和2年(1927)、融資を受けていた台湾銀行が営業を停止したことで、鈴木商店は破たんしました。鈴木商店のぼっこうから破たんに至る激動のさなかにあっても、よねは泰然として日々を過ごし、破たん後の関係企業の処理も冷静に行いました。その姿から、鈴木商店では敬意をこめて「おいえさん」(店の女主人を指す言葉)と呼ばれました。

24 米騒動と鈴木商店

各地軍隊出動ニ関スル報告ノ件

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大正7年の米騒動では、鈴木商店は米の買い占めの風評が流され、大正7年8月12日に神戸の本社が焼き討ちにあいました。掲載資料は陸軍大臣が内閣に提出した米騒動の際の軍隊出動に関する報告書です。報告書では、地方官の要請で軍隊が派遣された地域、派遣の期間や規模が書かれています。神戸では8月13日から陸軍が出動しました。