第一部 女子教育の始まり

津田梅子と女子英学塾

津田梅子は華族女学校の教師となったのち、明治22年(1889)に再びアメリカへ留学し、ブリンマー大学などで生物学、教育・教授法を学びました。明治25年に帰国すると華族女学校の教授となり、明治31年には女子高等師範学校の教授を兼任しましたが、明治33年に両校を辞職し、東京市こうじまち区(現在の東京都千代田区)に女子英学塾(後の津田塾大学)を創設しました。

津田梅子肖像
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
(https://www.ndl.go.jp/portrait/)
津田梅子肖像
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
(https://www.ndl.go.jp/portrait/)

4 ハーツホン・ホールの図面

津田塾専門学校(東京)

昭47文部01461100

写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。

財閥や有力者からの財政的な支援のない女子英学塾の経営は、当初は大変困難なものでしたが、共にアメリカへ留学した大山捨松や瓜生繁子(旧姓永井、帰国後に結婚)、友人であるアリス・ベーコンやアナ・ハーツホンらの支えを受け、発展していくことになりました。

掲載資料は、昭和6年、現在の小平市に移転新設された女子英学塾の校舎新築工事設計図です。現在の津田塾大学で、ハーツホン・ホールと呼ばれている大学本館の、1/200の「透視図」です。

5 津田英学塾への校名変更

津田塾専門学校(東京)

昭47文部01462100

写真をクリックすると、拡大画像が表示されます。

津田梅子は生涯を女子教育に捧げ、昭和4年(1929)に死去しました。女子英学塾は昭和6年には、関東大震災(大正12年)で焼失した校舎を再建した際に、東京府北多摩郡小平村(現在の東京都小平市)に移転しました。昭和8年には、津田を記念するとともに、創立の精神を発揚するために、校名を女子英学塾から「津田英学塾」と改称、昭和23年には新制の津田塾大学となり、現在に至ります。

掲載資料は「津田英学塾」への校名変更申請書です。理由の一つには、日本語・英語ともに、通称の「津田英学塾」の方が一般的であったことがあげられています。