12 明治22年の医師名簿
日本医籍
ヨ490-0021
明治初期の日本では、女性が医師になる道は厳しく閉ざされていました。これに対して、女性の患者は女性が診察すべきと考え、女医を志したのが荻野吟子(1851~1913)です。荻野は明治18年に日本で初めて医術開業試験に合格し、医師開業の許可を得た初めての女性医師となりました。
明治22年刊行の内務省衛生局編集『日本医籍』には、東京府下谷区西黒門町(現在の東京都台東区上野)に居住していた荻野の名が見えます。
「女医」の道を大きく発展させたのが吉岡弥生 (1871~1959)です。吉岡は、明治22年(1889)、私立医学校済生学舎に学びました。明治25年に医術開業試験に合格、日本で27番目の女医になります。その後、一度は故郷の掛川に戻ったものの、明治28年に再び上京し、医師として開業する一方で、跡見女学校に通い、夜は私塾の東京至誠学院でドイツ語を学びました。同年、東京至誠学院院長の吉岡荒太と結婚します。明治30年には、東京至誠医院を開業しました。
日本医籍
ヨ490-0021
明治初期の日本では、女性が医師になる道は厳しく閉ざされていました。これに対して、女性の患者は女性が診察すべきと考え、女医を志したのが荻野吟子(1851~1913)です。荻野は明治18年に日本で初めて医術開業試験に合格し、医師開業の許可を得た初めての女性医師となりました。
明治22年刊行の内務省衛生局編集『日本医籍』には、東京府下谷区西黒門町(現在の東京都台東区上野)に居住していた荻野の名が見えます。
専門学校令・御署名原本・明治三十六年・勅令第六十一号
御05529100
明治36年に公布された専門学校令の公布原本です。これにより高等教育機関に関する統一的な法制度が整備されました。第5条に「中学校若ハ修業年限四箇年以上ノ高等女学校ヲ卒業シタル者」とその入学資格が定められています。この専門学校令により、医学の分野でも、医学専門学校が設置されました。
東京女子医学専門学校学則中変更認可
昭47文部00176100
吉岡が学んだ済生学舎は女子が医学を学べる数少ない医学校でしたが、明治33年に女子の受入れを停止します。そこで、吉岡は同年に日本初の女医養成機関として東京女医学校(明治45年に東京女子医学専門学校、現在の東京女子医科大学)を設立しました。吉岡は学校教育と共に医師としての診療活動にも力を入れました。吉岡の意志を受け、東京女医学校では教育の一環として、医学生による夏の無料診断を行うなど、社会活動にも力を注ぎました。
掲載資料は大正13年(1924)当時の「東京女子医学専門学校学則」に綴られた「学科課程表」です。同校で履修する科目と時間数等が記載されています。同校は大正9年、医師法による文部大臣の指定校となったことから、「卒業生ハ無試験開業ノ特権」がありました。